映画『巡礼の約束』の10点満点評価
★★★★★★★★★(9点)

映画『巡礼の約束』岩波ホール予告動画、およびストーリー概要
山あいの村で、夫のロルジェ、ロルジェの父と暮らすウォマ。
病院である事実を告げられたウォマは、聖地ラサへの五体投地での巡礼旅に、一人で行くと決意する。
半年以上もかかる巡礼の旅に、初めは反対していたロルジェだが、ウォマの固い決意にラサ巡礼を受け入れる。
しかし妻の決意にはある秘密があった。旅に出た妻を追ってくる夫。そして妻の実家に預けられ、心を閉ざしていた前夫との息子もやってきた。
後悔、嫉妬、わだかまりを抱えながらも、少しずつ結びついていく三人。
しかし、そんなある日、ウォマがついに倒れてしまう…
映画『巡礼の約束』のポイント
良かった点
- チベット仏教の奥深さが感じられ、今持っている価値観や宗教に関する考え方がガラリと変わるほどの力を持っている
- ハリウッド映画顔負けのカメラワークのセンスの良さにより、緑々しく美しい映像に引き込まれる
- 「家族」の定義についても、深く再考させられる
気になった点
- オープニングでスタッフ情報が挿入されるが、エンドロールでもスタッフロールが流れるので、冗長さを感じる
- ストーリー概要を知らないと、キャラクターの関係性を理解するのに時間がかかる
映画『巡礼の約束』の感想
この『巡礼の約束』は、日本では東京神保町にある映画館「岩波ホール」を始めとした限られた特定映画館でのみ鑑賞ができる映画です。
普段映画を観ている人ならば(意識せずとも)「キリスト教」の思想に触れる機会は多いと思いますが、本作『巡礼の約束』は、日本にいながら「チベット仏教の美徳」を学ぶ機会が得られる貴重な映画です。

チベット仏教の奥深さ
本作『巡礼の約束』は、中国四川省(東チベット)の田舎町である「ギャロン」から物語が始まります。
「ギャロン」は中国で最も美しい村と言われていますが、平たく言えば「ド田舎」で、中国都心部に比べて明らかに文明発達が遅れており、劇中でも丁寧に原始的な生活が基盤であることが描かれています。
しかし、田舎町の家の中で「くたびれたラジオ」から聞こえるノイズ交じりの音楽を聴くシーンや、手作りの巡礼用の足袋を夫婦間で手渡すシーンでは、ロルジェ&ウォマ夫妻から強い「幸福感」が感じられます。

また、ストーリー概要にもある通り、妻であるウォマは自身の死期を悟り、「ある約束」を守るために「聖地ラサへの五体投地での巡礼旅」を行う決心をします。
「五体投地での巡礼旅」は、1歩あるくたびに体全体を使ってうつぶせ状態で祈りを捧げ、立ち上がり、また1歩すすみ同じことを繰り返すという過酷極まりない移動手段をとる巡礼です。
「五体投地での巡礼旅」は、仏教において最も丁寧な礼拝方法の一つとされ、「仏法に心から従う」もっとも敬虔な信仰行為となります。
現代的倫理観からすると「愚行」に見えがちですが、そう見えてしまった場合はあくまで「我々の価値観」と比較した場合というのがポイントだと思います。
2020年2月21日から日本で公開されるアリ・アスター監督の『ミッドサマー』では、北欧地域の「土着の宗教による祝祭」をテーマとして、「我々の現代的価値観」とのギャップをホラーとして描いていますが、本作『巡礼の約束』では、幸福感に関する「我々の現代的価値観」と「チベット仏教」における価値観の違いを描き切っていると思います。
<ミッドサマー予告動画>
筆者は最先端技術がとにかく好きで、常に生活のシステム的な効率化、自動化を図るように心がけていますが、なぜかそれとともに「幸福感」が比例して上がっていかない事実に薄々感づいていました。
人間は欲深い生き物なので、何かを手にするとさらにその次の何かを欲していきます。
この常に「新しい物」を欲し、手に入れることが「幸福」に繋がることを疑わない「現代的な価値観」こそ、疑うべきものなのではないか?と、本作『巡礼の約束』を見て再認識させられました。

また、無神論者の筆者は「リアリズム」と「宗教」は対局にあるものであり、絶対に相見えることがない物だと思っていましたが、この点についても考えを改めることとなりました。
ウォマは病気により自分の死期が近いことを誰よりも理解しているため、病院で治療を行ったとしても助からないことを悟った結果として、「ある約束」を軸としながら、神に祈りをささげる「五体投地での巡礼旅」を行うことを決意しました。
つまり、現代医療を持っても治せない病に侵されたことを受け入れ、最も「リアリズム」のある選択こそ、「ある約束」を守ること、同時に神に祈りをささげる「五体投地での巡礼旅」であったと考えられます。
僅かな「生の可能性」を求めず「自分の死を受け入れること」、同時に「自分の尊厳」を守るという「リアリズムな選択」の先が「五体投地での巡礼旅」に繋がっていることになります。

カメラワークのセンスの良さ、緑々しい絵面の美しさ
本作『巡礼の約束』では、「ワン・ウェイホアさん」という方が撮影監督を行っていますが、ハリウッド映画顔負けの素晴らしいカメラワークが特徴です。
物語序盤にロルジェ&ウォマ夫妻がじゃれ合うように肩を寄せ合う(ぶつける)シーンがありますが、その際、一寸の狂い無いタイミングで僅かにカメラがその優しい衝撃を表現するように揺れます。
また、ロンジェに「受け入れ難い出来事」が起き、「何をするべきか見失った瞬間」には、眺める光景にボヤケたフィルターがかかり、思いに耽っていることが有体に理解できる映画的な表現がカメラワークで描かれています。
本作『巡礼の約束』は、映画全体を通して緑々しい幻想的な美しいシーンが続くので、シンプルに「映像美」に酔い惚れてしまう魅力があります。
109分という上映時間ですが、ストーリーはなくてもいいから、まだまだ映像を見ていたいと思わせるほどの「映画的な映像美」の心地良さが詰まっています。
また、エンディングシーンがとにかく白眉で、映画史上最高のエンディングと称される『明日に向かって撃て』を見た時と同じような衝撃を受けました。

家族とは何かも考えさせられる
本作『巡礼の約束』では、「家族」の定義についても再考させられます。
ストーリー概要にもある通り、「ノルウ」君はウォマの前夫の息子であるため、現夫ロンジェと直接的な血の繋がりはありません。
「ノルウ」は自分がロンジェと血の繋がりがないことを理解しているため、ロンジェから自分を少しでも見えないようにする(自分の存在を呪う)ために、最初は「ビニール袋」を頭からかぶり隠れようとします。
しかし、ロンジェのノルウを思う気持ちが「真の父親」と同じであることを「五体投地での巡礼旅」を通して悟り始め、徐々に心を開いていきます。
また、この「五体投地での巡礼旅」では、道すがりの家に住んでいる人が親身になって献身的な協力の手を差し伸べてくれ、「家族同然」の扱いをしてくれます。
とどのつまり「血の繋がり」というものは、「家族」であることを認識させる手助けの道具の1つに過ぎず、「人を思いやること、それを受け入れた時」が即ち「家族」ではないかと考えさせられます。

ただ、1点だけ気になるのは、血の繋がりがなくてもノルウを思う気持ちがあるロンジェが、なぜノルウ君をウォマの実家に預けることとなったのか、劇中語られないので、少しモヤモヤしてしまうところはあります。
宗教色が強く、決して明るい映画ではありませんが、学ぶべきこと・考えさせられることが多い名作です。
無神論者の筆者ですら、本作『巡礼の約束』により「宗教」の意義について深く考えさせられ、今後の人生に恐らく何かしらの影響を及ぼすと思います。
映画作品単体の持つ力としては、間違いなく「アカデミー賞候補クラス」であることに疑う余地がありません。
多くの大衆映画ファンに受け入れられるような派手なアクションシーン等はありませんが、映画好きならば必見です。
